彼女の福音
肆拾肆 ― 戦乙女達の憂鬱 ―
始まりは、突然に。
そう言ったのは、誰だっただろうか。私はぼんやりと考えた。何故かと言えば、私の目の前で展開された騒動の始まりは、本当に突然起こったのだった。そう考えていると、辞書が私の傍を亜音速で飛んで行った。ふむ、杏もそろそろスタミナ切れなのだろうか。
「お、岡崎の姐さん」
テーブルの下で震えている若い衆が私に話しかけた。頬に傷があるところを見ると、辞書がかすったのかもしれない。
「申し訳ねえが、悠長に紅茶なんて飲んでいないで、藤林の姐御を止めておくんない」
「ふむ」
私は紅茶を一口啜ると、私の頭に向かって飛んできた辞書を返す手で止めた。杏の全力で放たれた辞書、その運動エネルギーを受け止めるだけの防御力は、いくら大国が兵器開発に資金を注いでも実現にあと十年はかかるだろう。私もそういう杏の一撃が私に向かってきた時はかわすことを心がけている。現に私の後ろの壁には、辞書が数冊のめり込んでいた。最初の二溌においては、それはすでにクレーターとなっていた。どうやって有紀寧さんはこれの修復を賄うのだろうか、と少しばかり考えてしまう。しかし、いまや威力の半減した辞書投擲なら、ある程度硬化に神経を集中させれば片手で防ぐことができる。
「私が出るのはやぶさかではないが……早く事が済むかわりに被害は倍増するぞ?」
「……さいですか」
がく、と若い衆が項垂れた。その傍で、別の男が辞書の直撃を喰らって倒れた。
「源蔵?源蔵、しっかりしろ」
「与作か……俺は、もう、ダメだ」
「医者!医者はまだか!!」
「しっかりしやがれ、お前、妹さんをどうするつもりだ!!」
「……そういやぁ……与作、てめぇ、あれが好きなんだったよなぁ……」
「ああそうだ。いつもいつもてめえが邪魔して、恋文の一つも出させてくれなかったけどよ……!」
「衛生兵!衛生兵!!」
「あいつぁ……お前に、任せた」
「源蔵?おい、お前、何言ってやがる?」
「妹を……幸せに……」
「源蔵?おい、源蔵!げんぞぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
そんなライアンさんのプライベートみたいな一シーンを見つつ、私は紅茶を終わらせた。辞書や百科事典の嵐が吹き荒れる中で、ここに新たな尊い犠牲が現れた。合掌。
不意に、その嵐が止んだので私は店内を見回した。内装の質の高さで有名な「Folklore」も、いまやテーブルの半分はガラクタと化し、残りはバリケードとして立てられていた。それにも本が当たった痕が生々しく刻まれた物がほとんどだ。調度が無事なのは、私辺りぐらいだろうか。床には食器やら何やらが散らばっており、そんな瓦礫のような食器の破片に交じって倒れた人も見えた。幸い、どうやら「カタギ」の人は巻き添えを喰らわなかったようだ。
そしてその破壊と混沌の中心に、この町の幼稚園の教師だった者が立っていた。
目は鮮血のように赤く、獣のように爛々と光っていた。硬く噛み合わされた歯の間からは、シュコー、シュコーと不気味な音を立てて息が漏れていた。もう辞書やら何やらがなくなったからなのだろうか、それはただ立っているだけだったが、その周りにどす黒く燃えるオーラが、近づいてはならない、と本能に警鐘を鳴らさせていた。
不意に、その者は私を目で補足すると、こちらに一歩ずつ近づいてきた。店内に残った者の視線が、私たちに集中する。先ほど私に話しかけた若者などは、腰を抜かしたまま逃げて行った。
こつ、かつ、かつん
私の前に幽鬼のようにゆらりと立ちはだかると、それは押し黙って私を見た。
「……気が済んだか」
「……智代」
「ん。何だ」
そして私の親友、藤林杏は、ぽつりとこう漏らしたのだった。
「ダイエット、付き合って」
始まりは、突然に。
そう、本当に突然のことだが、とある午後、私に杏から電話がかかってきたのだった。
『もしもし智代?ねぇ、今日の午後空いてる?』
「午後……は」
一応手帳を見ると、そこには非情ながらこう書いてあった。
『朋也がいなくなってから一日目』
「……朋也……」
不意に鼻の奥がつん、となり、目頭が熱くなった。そうだ、そうだった。朋也は、私の愛しの朋也は、もういないんだった。
『……どうしたの、智代?』
「朋也が……いないんだ……いなくなってしまったんだ」
『……え?』
「朋也が、今朝『悪い、すぐ戻ってくるから』と言って、紙切れを私に渡して……それで」
『その……その紙切れ、何て書いてあったの?』
私はちゃぶ台に置かれた紙を見て、足がすくんだ。畳んだままの、緑色の紙。それは、夫婦関係の終わりを告げる、破滅の通達。
『せめて、何で朋也がそう思ったのか確認しないと。今からでも遅くないと思うわよ』
「うん……そうだな」
そう励まされて、私は涙を拭き、ちゃぶ台に置かれた紙を手にした。ああ、朋也。私に至らないところがあったのなら、どうして言ってくれなかった?私は、お前の隣にいるためなら何でもするのに。ああ、朋也。
私は深呼吸をすると、その紙を開いた。
「……」
『……ねぇ、何て書いてあったの?』
「……光坂」
『へ?』
「光坂市内電気工組合合同研修のお知らせ」
盛大にずっこける音が、電話の向こう側から聞こえた。
『……いつつつつ……ちょっと、智代』
「すまない……」
しゅん、となる私。うん、そうだ、そうに決まっている。二人の愛は永遠だ。朋也が私を置いていってしまうはずがないじゃないか。ははは、馬鹿だな、私も。岡崎いぇいいぇーい。
『で、午後暇なのよね』
「うん、そうだな。朋也がいないわけだし……」
朋也が、いない。
「……ともやぁ……」
『って、そこで落ち込まないっ!』
「落ち込むな、だと?朋也が三日も帰ってこないんだぞ?ああ朋也、お前のいない間、私が枕を涙で濡らさない夜はないだろうな……」
『三日ぽっちでグダグダ言わない!!そんなんだったら、遠距離恋愛のあたしはどーなるわけよ?』
「お前も結婚してみればわかる。ふむ、そうだな、そういう話はまだないのか?」
『なっ、ば、馬鹿なこと言ってるんじゃないわよっ!そ、そそ、そんなことより、暇なのよねっ?!』
「ああ、暇だ。朋也が……」
『だったら付き合うっ!あたしがそういう寂しさとかも全部忘れさせてあげるからっ!!』
その時、私の脳裏に少しばかり怖気の走る想像がよぎった。夫のいない若妻(何か文句があるか?)+付き合う+寂しさを忘れさせる=……
「きょ、杏、待て、早まるな」
『あたしと何もかも忘れて、楽しい時間を過ごす。これよこれ』
「私にも心の準備が」
『全て快楽に委ねなさい。話はそれからよ』
「超えてはいけない一線があると思うんだ」
『何言ってるのよ。リミットブレイクよリミットブレイク。それじゃ、迎えに行くからね』
「待て、杏!」
しかし返ってきたのは、ツーツーという無機質な電子音だけだった。
その時から非常に嫌な予感がしたのは、確かだった。
「結局はこういうことか」
私はげんなりと言った。
「そ。こーゆーこと」
隣で元気はつらつな杏が笑う。そんな私たちの目の前には、大きなサインがそびえたっていた。
「春一番!ケーキバイキング」
「もっと正確に電話で話してほしかったぞ。変な想像をしてしまったではないか」
「?」
「いや……何でもない」
ため息をつきながら、私はウキウキしながら店に入った杏に続いた。
「渚のところ、おいしいんだけどね。いまいち量がね」
「しかし量だけというのも問題だろう」
「あら、ここ、それなりにおいしいわよ?騙されたと思って試してみなさいよ」
そう言われてトングを渡されたのでは、私だって試してみないわけにはいかない。私はしばしためらった挙句にモンブランとザッハトルテを取った。杏はと見ると、ショートケーキとミルフィーユを選んでいた。席に戻ると、私たちはフォークを手にした。
「む」
「ね?」
確かにおいしいケーキだった。古河さんのところのような細やかさはなかったが、それでも充分通用するものだった。ふむ、もしかすると朋也もこういうケーキは好きかもしれない。でも、そうだな、もし私がこういうのを作ってみたら、それはそれで喜んでくれるんじゃないだろうか。
「朋也、出来たぞっ」
「おお、美人で気立てのいい智代、おいしそうだなっ」
「うん、上手くいった方だと思うんだ。というわけで、あーん」
「あーん……うまいっ」
「そうか?うん、うれしいぞ、そう言ってもらえて」
「くぅ、美人でスタイル抜群で飯もうまい智代に、こんな隠しスキルがあったなんて!俺は何て幸せ者なんだっ!」
「馬鹿、照れるじゃないか」
「智代、愛してる」
「わ、私もだ」
「智代……」
「朋也……」
「妄想してるところ悪いけど、早くしないとバイキング終わっちゃうわよ?」
そう言われて、私は我に返った。しかし
「む?」
「え?どうしたの?」
「いや、気のせいかもしれないんだがな。杏、まさかもう……」
「あ、わかった?」
えへへ、と笑う杏の前には、ショートケーキとミルフィーユの代わりに梨のタルトとチーズケーキがあった。
「だって、おいしいんだし、時間制限制よ?早く食べないと損するじゃない」
「まあ、わからないでもないんだが……」
私の場合じっくり味わってこの料理をモノにしてやろうというところがあったからなのかもしれない。時間をかけたと思っていたのだが、それでも三回お代りをしてしまった。ただ、その間に八回お代わりした杏は、別次元の速度だったと言わせてもらおう。
さて、次の日のことだ。私は少しばかり気分がすぐれなかったので、「Folklore」に顔を出してみた。確か有紀寧さんが胸やけに効くと言うハーブティーを出したと聞いたからだった。すると、そこには既に杏がぐでん、とテーブルに半ば突っ伏すような形で座っていた。
「どうした、杏。体調が良くないのか
「……うー。昨日食べ過ぎた」
「ふむ、杏もか。私も、少しそんな気分だな」
「体はね、大丈夫なのよ。寧ろねぇ……」
紅茶を頼むと、私は憔悴している杏に向き直った。
「寧ろ?」
「太った」
おどろおどろしい声で、杏は一言そう呟いた。
「そうか……」
「まぁ、あれだけ食べればね……でも、どうしたもんかしらね」
「まぁ、当分ケーキは控えるべきだろうな」
「そうよねぇ……ちなみに智代は大丈夫なの?」
「う」
大丈夫、なわけがなかった。私にだって影響は出た。しかし、それをこの友人に伝えていいものかどうか。
「……少しきつくなったな」
「ああ、わかるわかる」
「……胸が」
ぴし、と杏が固まった。
「何よそれぇっ?!」
次の瞬間、バンとテーブルを叩いて立ち上がる杏。その目は獅子をも射殺せるかのようだった。
「そんなのないわよっ!何であんたの場合胸部限定なのよ?はぁ?あんた女舐めてない?」
「いや、そう言われてもな」
「だいたいこれ以上大きくなってどうするのよ?朋也だって持て余すわよ」
「いや、それはない」
朋也のことだ、絶対に「形が崩れないように揉んでやる」とか言ってくるに違いない。間違いない。絶対にそうだ。
「も〜っ」
ぷん、と杏が椅子に沈み込んだ時のことだ。からん、とドアのベルが鳴って、顔見知りになった若者が店に入ってきた。
「ち〜っす。あ、岡崎の姐さんに藤林の姐御」
「あら。こんにちは」
「ういっす。あれ?」
その若者は、見るからに軽そうで、人のことを斟酌する能力が欠けているようにも見えた。しかし、物事には限度というものがあり、その限度を越すと、全て崩壊してしまう。
「あれ?ってどうしたのよ」
「いや、気のせいかなぁ」
そして、崩壊が始まる。始まりは突然に、たった一言で。
「姐御、太りました?」
私の足が空を切った。それをかわして、杏がパンチを放つ。軽くいなしながら、私はため息をついた。
「なぁ、もうやめないか」
「な、何言ってんのよ。まだまだ」
杏はふらつきながらも拳を握った。グローブがぶるぶると小刻みに揺れている。
「これ以上はむしろ体に毒だ。過度の運動と食事カットは、ダメージの方が大きいぞ」
「大丈夫よ。こんなんで倒れる杏様じゃないっての」
そう言いながら杏がパンチを繰り出してきた。私はそれを前腕で受けると、右足を軽く上げた。
「!!」
ぽす、と軽い音を立てて私の足が杏のリボンに触れる。
「ほらな。一昨日のお前なら今の一撃は受けられた。その前のお前ならよけていたところだぞ」
「う……うー」
ぼす、と杏が座り込んで悔しそうに唸った。
あの日から一週間。私と杏は夜な夜な町の外れの丘でスパーリングを繰り広げていた。最初の頃は早く激しく、しかし絶妙な技量と加減によって行われていた組み手だが、次第に杏は遅くなっていき、また威力も加減しているというよりは力が出ていない、という具合になっていった。しかし残念なことに、このような荒治療でスタイル良く痩せるはずもなく、バイキングに行く前に比べればまだ幾分か丸さが見れた。
「言っただろ、食事制限はほどほどにしておけって」
「だって……今週陽平が会いに来るって言ってたから……」
指をつんつんと突き合わせる杏に、私はため息をついた。
「だからと言って無理に推し進めたら、それこそ元も子もないだろう?春原が来ている時に倒れてしまったら、どうするんだ?」
「……」
「そもそも、春原が少しばかり太ったぐらいで愛想をつかすような奴か?断言してもいいぞ、あいつのことだから杏が太ったことすら気付いていないだろうな」
「…………」
「杏?どうした、さっきから黙って?」
私はそう尋ねたが、答えを返す前に杏はふらふら、と体を揺らし、そしてそのまま倒れ込んだ。
「杏っ!!」
咄嗟に杏を抱きかかえたが、今度は返事どころか反応もなかった。私はその場で呼吸と脈を確認すると、即座に携帯を取り出した。
「馬鹿だろ」
「馬鹿ですよねぇ」
杏が目覚めた時、最初にかけられた言葉がそれだった。
「う……」
呆れかえった視線を送る朋也と椋に、杏はばつが悪そうな顔をした。
「飯を一日一食にするってもな、幼稚園の先生って結構ハードなんだろ?いきなりやったら参っちゃうだろうが」
「そうだよ、お姉ちゃん。だいたい、その上で智代さんとスパーなんて、普通の人ならすぐに倒れちゃうよ」
「……すまない。私がもっと強く止めていれば……」
私が深々と頭を下げると、杏が慌てて手をひらひらさせた。
「ちょっとよしてよ。あたしが強引に付き合わさせたんじゃない」
「でも……」
「あたしがちょっと馬鹿だっただけよ」
すると椋と朋也がうんうん、と頷いた。
「そうだぞ智代。杏がものすごく馬鹿だっただけだ」
「気にしないでください、智代さん。おねえちゃんの頭のネジの緩み具合が普通じゃなかっただけですから」
「……あんたら二人、あたしが全快したらミーティングだからね」
白い顔に青筋を立てて、杏が拳を握った。すると
「杏っ!!」
「陽平……」
部屋のドアを破らんばかりの勢いで開けて、春原が入ってきた。
「大丈夫?倒れたって聞いたんだけど」
「うん、大丈夫よ……心配かけちゃってごめんね」
そこには、先日百戦錬磨の猛者をも黙らせるほどの力と迫力で君臨した戦舞神とは同名の、しかし全く別人格の女性がいた。
「よかったぁ……いやぁ、無事でほっとしたよ」
「そんなに心配したの?馬鹿ねぇ」
「当たり前だろ。杏はなんたって僕の彼女なんだし」
「……馬鹿」
そこには、先日保険上は「天災」に巻き込まれた「Folklore」にて展開された乾いた緊迫感とは別次元の甘い空間が発生していた。時々私は杏が二重人格なのではないかと疑ってしまう。
「まぁ、それがツンデレというものだしな」
「なるほど……奥が深いな」
私たちが頷いている間も、会話は続いた。
「あたしが陽平を置いて行っちゃうわけないでしょ」
「へへ。話半分に聞いとくよ」
「本音よこれ」
「あのぅ……」
椋が暗い声で言った。
「病室内でピンクな空間を作らないでください。他の患者さんに迷惑です」
「あ」
「すみませーん」
ぺこりと春原は頭を下げると、春原は手に持っていたプラスチックの袋をがさごそと引っ掻き回した。
「?何よそれ」
「お見舞いの品。倒れた時にはこれが効くってさ」
「困ります。そんな勝手に」
「まぁそう言わずに。ほら、杏」
そして春原が取り出したのは
「…………ネギ?」
「そ。杏が前に僕の看病しに来てくれたじゃん?あの時にうつしちゃったかなって思ってさ。だから、風邪によく効くネギを買ってきました」
しかも、長ネギではなく、それより一回り長くて太いリークネギだった。
「あたし、風邪じゃないわよ」
「まぁまぁ、恥ずかしがらずに。ほら、鼻の穴に突っ込んで、早く元気になろうよ」
春原が意味不明のことを口走ると、杏は体を小刻みに震わせた。
「そんなの……」
「へ?どうしたの?」
次の瞬間、杏が吠えた。
「そんなの入るかぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「前回僕の鼻に突っ込みましたよねぇぇえええっあべしっ」
始まりは突然に、終わりは騒然と。
リークネギが春原の鼻にねじ込まれたところでこの話はひとまず決着と行くのだが、これにはちょっとした後日談がある。
「まぁ、元気になってよかったじゃないか」
例によって例のごとく私は紅茶を飲みながら杏に笑いかけた。照れ笑いで杏が返してきた。
「ごめんね、馬鹿騒ぎに巻き込んじゃって」
「まぁ、親友の力になれてうれしい」
「ありがと」
「それにしても」
にやり、と私は笑った。
「病院に春原が来た時は驚いたな」
「え?そ、そう?まぁ、あたしみたいな彼女が入院だったら、どんな馬の骨でも飛んでくるのが普通よね、うん」
どもりながら赤面する杏を見て、私は更に笑った。
「いや、春原にじゃなくてだな、お前にだ」
「あ、あたし?」
「特にここでの修羅場を目撃した揚句に毎晩スパーリングの相手をさせられた後、あんなに態度が豹変するところがな。ハイド氏もびっくりだな」
ぼんっ、という音がした気がした。杏は耳から煙が出そうな勢いでまくしたてた。
「ちち、違うのよ、あれは、その、あれよ、そうそう、あれよね、うん、なにがどーしてこーたらうんたらなのよ、本当よ?」
「とどのつまりは愛しの陽平君の前ではおとめちっくな杏ちゃんというわけか」
「と、智代っ!!」
照れ隠しに杏が私を睨んだので、私は笑ってそれ以上追及するのをやめた。まぁ、こんなからかいは、私が朋也と付き合いだした時に鷹文から何度もやられたから、気持ちはわからないでもないが。
「お待たせいたしました。ダブルエスプレッソとチェリーパイです」
「あ、はい。ありがと」
杏の前にカップとおいしそうなパイを置くと、ウェイトレスさんは一礼して向こうに行ってしまった。
「……何よ」
私の視線に気づいたのか、杏が居心地の悪そうに言った。
「そのパイ、食べるのか」
「え?そうだけど」
「太るぞ?」
「あ、それね」
あはは、と杏が笑った。
「あのね、陽平がね、退院した時、何て言ったと思う?」
「……さぁ」
「『あれ?杏、もっと女性っぽくなった?何だか前にも増して綺麗な感じするけど』だって。も〜、困っちゃうわよね〜」
ナイスフォローだ春原。もしそれが本音なら尚更よいのだけど。まぁ、恐らく本音なのだろうけど。
「まぁ、ほどほどにな」
「そうねぇ。それが一番よね」
そう言いながら、杏はチェリーパイを一口ほおばった。